インタビュー企画・蓮行(1)

蓮行、“演劇×社会”を語る 。第一回は題して「極端な話」。
劇団衛星のユニークな活動と、それ以上に気になる"立ち位置"。
代表の蓮行がいま何を意識しどんな姿勢でいるのか、探ってみませんか・・・?

__ 本日は宜しくお願いします。

蓮行(以下略) 宜しくお願いします。

__ 先日のフリートークぶりの質問ですね、蓮行さんは最近どんな感じですか?

最近は、珍しく忙しいですね。

__ そうなんですね。それは、どういう?

「貧乏暇なし」的な忙しさです。
ラーメン屋に例えると…ラーメン屋に行列ができて、たくさんラーメン作ってみんなに食べてもらわなあかんっていうのは「貧乏暇なし」じゃない忙しさなんですよね。
でも今の忙しさは「繁盛してる忙しさ」よりは、みんなにラーメンを食べに来てもらうためにチラシを作ったり食べログと交渉したり、或いは新しいラーメンのスープを発明しようとしてみたり。そういうところが忙しいかな。

__ なるほど。新しいラーメンの発明、気になりますね。

そうですね。うん。

__ どんな感じのことをされてるんですか?

間違った言い方をするとすごい誤解を招くので、ちょっと慎重に言わなあかんのですけど。

__ はい。

まあ「演劇はあった方が良い」っていうことなんですけどね。
演劇を創ってお客さんが来てくれる・観てくれる、ということなんですけれど。人数が多けりゃ良いかっていうと、そう一概にも言えない。「お客さんの数が増えれば増えるだけ良い」としてしまうと、1回100人しか入らない小劇場演劇と一試合で30,000人入るナゴヤドームの野球の試合を比べたら、ナゴヤドームの野球の試合の方が300倍価値があることになっちゃうんですね。

100席を巡って


__ 量だけの問題にしてしまうと。

そうそう。
そうだし、その100人っていうのが「ずっと楽しみにしてて、ずっと予定を空けていた」のか、「友達が出てるし、こないだ自分の芝居観に来てもらっちゃったし、しょうがないから行こう」っていう人で100席が埋まっているかでは、だいぶ意味が違うわけですよね。質的にも。
それでも上演はもちろんした方が良いし、しなきゃいけないし、もちろんお客さんも0よりは1人でも、1人よりは100人、埋まっていた方が良いんですけど…そういうところの議論だったりとか、或いは演劇の、僕らだったら演劇の要素を、ほかの社会的な様々な所にインストールするという仕事をたくさんしているんだけども、そのインストール方法、言い換えればインストールするコンテンツですね。看護師さんの研修にはこれ、学校の研修にはこれ、小学生に防犯教育するにはこれ、というようなことをコンテンツ化と言ってるんだけど、そのコンテンツの開発だったり、良いコンテンツができたらそれを社会実装していこうという次のプロセスだったりという、言ってしまえば、演劇の「公演を上演する」っていう部分以外。
演劇人が、正に聖域的にやるべきなのは演劇の公演を創るという作品創りの部分だけであって、それ以外のことは他のセクターの人と協力してやった方が良い。

__ 演劇人以外の?

そうですそうです。

話を戻して、「何を発明しているんですか」っていうと、他のセクターの人たちとのつながり方とか共同の仕方とかっていうことですね。

__ なるほど。

__ 先日のフリートークの内容に触れたいと思います。フリートークでは「演劇を普及させていくことがより良い社会につながっていく」という旨のお話で、演劇が未開拓の場所に演劇を持って行こうというお話を前回されていましたよね。それは先程おっしゃっていた「演劇人以外の人たちとのチャンネルを開いていこう」という話にもつながっていると思うんですけれども…。演劇未開拓の地に足を踏み込んでいこうという時に、開拓先に働きかけていくことは勿論だと思うのですが、その際、既に演劇関わっている人に対しても何かアプローチをしていこうというイメージはありますか?

正直ほぼ考えていないです。

__ それは何故?

ほとんど考えていない、というよりは、考えなくなったっていうのが正しいですね。
僕は自慢じゃないけど、それこそ劇団衛星を作った22-3年前から、演劇界では結構異端だと思うんです。異端だったんだけれども、別に「繋がってなくてはいけない」とかそういう風に思っていたわけでもないんです。
例えば docomo と au と softbank っていう大きなキャリアがあって、彼らは当然普段はものすごいしのぎを削っているわけですね。いかにして他のキャリアの客を連れてくるか、みたいなことを日々やっているんですけれど、総務省に対して「携帯電話の電波の周波数の割り当てがどうの」とかいう交渉をする場合には、三社が組むわけですよ。共通利益がある時には組める。でもそうじゃない時には、例えばずるい手を使ってでも足の引っ張り合いをしたりすることもあるわけです。であれば、僕は、別に演劇の人達も、いざという時には連携すれば良いけれど、そうじゃない時は飲み屋でお互いの芝居をこき下ろしていたりとか、さらには「アイツ嫌いや」って言ってたりしても別に良いと思うんですね。良いとは思うんですが、僕のこの20年ちょっとの感覚でいうと、好き嫌いを超えて、「ある利益のために一緒にやっていきましょう」っていうことをできるほど、これもちょっと誤解を招きそうだけれども、演劇界はオトナじゃない。だから僕は、すくなくとも今の、演劇をやりたい人の大多数の感覚とは合わないし、むしろ矛盾する。
たぶん「矛盾する・敵対しちゃうレベル」と「合わないが棲み分けられるレベル」と、「まあまあ合うので友好的に関係できるレベル」と「完全に組むっていうレベル」と、たぶん4レベルくらいの段階があると思うんです。それでいくと、実は大半、少なくとも過半数の演劇の人達は矛盾・敵対すると思ってる。

__ 蓮行さんの今の考えと?

そう。矛盾すると思う。

オトナ、子供、演劇人

それをオトナじゃないっていうといけないのかもしれないけれど、「矛盾しないまでも棲み分けられる」っていうレベルに収まっておれば、「ここについては組みましょう」ということが成り立つはず。なんだけど、利害が矛盾しているわけじゃないのになんとなく好ましくない、っていうようなレベルにおいても、そのために何か連携ができない。
つまり、さっきの携帯電話の人たちは、オトナなんだよね。オトナの集団であり、巨大な、ある種の「人格なき集団」だから、好き嫌いを越えられるわけです。もっと言っちゃえば、三社が総務省に交渉する時っていうのは、別にお互いがお互いをライバルと意識している人たちじゃなくて、それぞれが雇った弁護士とかコンサルが組んで仕事をするだけだったりするので、そこには好き嫌いの感情が入る余地があんまりないんだよね。それは巨大だからなんだけれども。
ただ、言ってしまえばマイクロソフトとアップルだってビルゲイツとジョブズがお互いのことを死ぬほどこき下ろしてたのに、でもビジネスで利益があるなら組む、みたいなのは、あれはお互いの好き嫌いを超えて、最終的にはトップ同士の一種の個人の感覚になるんだけれども、それでも組めることは組める。
ということでいくと、演劇の人たちは、そう意味ではオトナじゃないともいえるし、「組んだら何億ドルも動く」となればどんなに嫌いでも組もうかとなるけれども、たかだか得られる利益が少ないんだったら、「じゃあ好き嫌いを優先すれば良いや」っていうのも一方で理にかなってるんですよね、実は。
今の演劇の業界っていうのは、それぐらい、組もうが組むまいが社会に与えるインパクトが、お互いにとって大したことないんです。そもそも、大半の人があくまで趣味として楽しく演劇をやっているのであって。さらに、演劇に関して言えば、スポーツと違って趣味でやることにも価値がある。草野球でやってる草野球の試合と、プロがやるプロ野球の試合では商品価値が全然違うんだよね。プロはまさに一球のためにものすごい才能と努力でやってきてるわけなんだけれども、僕らの場合は、つまり演劇の場合は、そこいらでやってる保育園児の発表の方が自称演劇人の人たちよりも面白かったりする。だから同列のレイヤーで比較した場合においても優劣がつけられちゃったりだとか、比較できちゃったりするんだよね。河川敷のピッチャーとプロのピッチャーを比較する人は誰もいないけれど、演劇に関しては、僕らが普段やってるお誕生日会とか発表会とか、そういうのも含めてすくなくとも比較が可能。お値段がつかないようなものでも、ひょっとしたら演劇史に残るようなインパクトのある作品も生まれかねない以上は、芸術活動っていうのは一定、経済的な論理から切り離して自由にしなければ面白いものはできない。そういう意味で言って、僕は「趣味で」っていうのは別にネガティブな意味で言ってるわけじゃなくて、それにはそれで価値がある可能性があると思っています。

__ 蓮行さんが演劇人を対象としたワークショップをされるよりも、演劇未開拓地に向けたワークショップを主にやってる理由は今おっしゃっていたようなところにあるんですか?

そうですね。でも逆に言えば、僕らが未開拓地を開拓していくためには、有能な人が、もちろん数も必要になるわけですよね。なので、それが足りないとなれば、「プロとしてやっていくんだ」というたまたま我々と近い思考を持った人に対して僕らが培ってきたノウハウを移植する、分かってもらう、少なくともぼくらの現場に行くにあたってはこれだけはおさえといてね、っていうのを伝える、そういう意味でのワークショップというのは十分にあると思うし実際に行ってもいる。そういう人材育成の外部資金をとって、環境演劇ワークショップの人材育成という名目でやっています。それはやってるし、ある種そういうワークショップをするよりも、実際の現場にアシスタントとかボランティアのスタッフとしてついて行って…これをOJTって言いますけど。

__ OJT?

「オンザジョブトレーニング」の略です。そのほうが早いので、わざわざワークショップという形でやるよりも、どんどん実践に投入されていく方がいろいろと合理的なんですね。

ご縁を頂いて

__ ありがとうございます。今の、演劇を普及させていこうというアプローチの中での主な売り込み先、アプローチしていく相手にはどういうところを想定していますか?

極端な話、演劇はどこでも役に立つんですね。どこでも役に立つし、どこでも不足している。今の日本では。なので、ご縁があれば、正直何だって良いんですよね。

__ なるほど。

たとえばもし法務省が「お金をつけるから、少年院に行って犯罪に手を染めてしまった少年の社会復帰を手伝ってくれ」と言うのであれば行くし、ということなので、アプローチする先っていうのは別に、どこっていうわけでもなく。
僕の大学での仕事では、実に様々な人と会うので、その様々な人との関わりあいの中で「演劇使えそうだな、よさそうだな」という人がアクセスしてきたらそれに基本的にお応えする。僕らが今まで開発してきた「演劇で算数」や「演劇で環境」や「演劇で防災」や「演劇で防犯」も、ほぼ全部「誰かから誘われて始めた」ことなんです。

__ では、「どこと組もう」いうアクセス先を蓮行さんから選んでいくというよりは、どことでも組んでなるべく普及に、広げるとことに専念していきたい?

うーん。でも、今となってはそういうわけではないんですよね。
そのように我々の応用範囲は横に非常に広がっているんだけれども、その中で、僕らも僕らで自分たちの経済的な基盤を安定して運用しなければいけないわけだから…。残念ながら、僕はそれを非常に良くないこと思うけども、世の中のいろんな、特に公的なお金っていうのは流行り廃りでつくんですよね。

__ 流行り廃り。

例えばキーワードが「IT」だったりとか、それが最近 「ICT」になり、「コミュニケーション」だとか、最近だったら「AI」だとかいうように、予算を流行でつける。僕らがそういった様々なジャンルにアクセスする中で、まずお金っていうところをちゃんと押さえようと思うと、その流行り廃りに一定乗って行かないといけない。なので、今の質問に答えるならば、我々に興味があって志のある人が「これに演劇使えますかね?」と呼び掛けてくれるアクセスについては常にオープンにしておきたい。ですが一方で、そうして横に広がった中で、すなわち僕らが十何件もジャンルを跨っていろいろ行っている中で、「今の流行りからするとここがお金とれそうだな」という時には、そういう方向の大学の先生と一緒に組んで予算を取りに行って、そこを重点的にプログラム開発と普及をやるということを、次々と、言わば「看板の書き換え」を一定せざるを得ない状況があります。ただそれは僕は良くないことだと思ってる。

__ 流行り廃りで行うことがですね。

よくない。本当は、そうすべきではないと思ってますね。
或いは…最初に話が戻るんだけど、そういう演劇の中身、本当の中身を創る以外の部分についてはいろんな人と組んだ方が良いっていうところの、そのいろんな人と組むにあたっては、大学というところとの仕事が非常に機能する。そもそも大学にはいろんな人がいるし、大学を通じたら、さらにいろんな人と関われるので。さらに、演劇というのはそもそも業界として信用が非常に低いところなので、大学というところに信用を担保してもらった方が仕事がしやすいというところがありますね。

__ ありがとうございます。

複次元的な話

__ フリートークの話題に戻ります。
「基本的人権が尊重される社会」というところの、「演劇が浸透していった先にはどのような社会が実現されていくのか」という質問に関して、蓮行さんからは「演劇が普及した社会は結果的に基本的人権が尊重される社会になってしまう」というお話を頂いていました。演劇の浸透が基本的人権の尊重に、どう続いていくのかが気になって。

うんとね、それはちょっと複次元的な話になるんですよね。

__ 複次元的な話?

言語っていうのは、基本的にはあるレイヤーのある一次元のことしか同時には語れないんだよね。つまり、例えばサッカーにおいて、解説者は選手の動きと監督の采配を同時には喋れない。「いまの選手はこうこうこう動きましたけれども、」と一旦とめておいて、「でもこれはこのような監督の指示に従ったものです」という風になるので、同時に起こったことも、タイムライン上に順番に載せないと喋れないわけです。図で描けば分かるんだけどね。監督の思惑と選手の動きを図で描けば、「あの時のプレイヤーの動きはこういうことだったのね」っていうのが同時に伝えられたりするんだけれども。
しゃべることで聞く側の認識が一定、印象が決まってしまうと、印象のバイアスが働くから、今から「3つのレイヤーのことを順番に喋りますね」ということをしたとしても、あるレイヤーのことを先にしゃべって、そこで認識が固まってしまうと、次の話があんまり聞けなくなったりとか、バイアスがかかったりとかしちゃう。なので、ここからの話は一応そういう前提でしていきます。

__ 注意してうかがいます。

では、なぜ基本的人権が尊重されちゃうかっていうことですけれども。まず「基本的人権とは一体何か」ということですが、これは実は極めてシンプルです。「老若男女、その人が赤ん坊であろうが障害をもっていようがセクシャルマイノリティだろうが怠け者だろうが、価値が等しい」ということ。
価値が等しくて、そのひとが、「すくなくとも人間として尊重されて、文化的な生活を送る権利を有する。」これが基本的人権なんです。たかだかこれだけのことですが、これが非常に多くのことに優先する。最優先と言っても良い。でもね、それこそお釈迦様とかガンジーとかでは「人に限らず他の生命だってそれは一緒だから…」とかいう話にもなったりするので、ことは単純ではないんだけれども、すくなくとも基本的人権ということについてはそうだし、人というところに絞ったところでも、基本的人権というのはすごく蔑ろにされているわけだ。

__ はい。

まずこれが前提ですね。で、演劇をやっちゃうと何が起こるかというと…
「基本的人権がなぜ蔑ろにされるか」っていうことは多くは2つ理由があって。
一つは、「基本的人権などというものはない。人間には価値づけがあってランキングがあるんだ」ということを本気で信じている人がいるということ。僕にもそういう差別意識がないかと言われればあるのかもしれない。あるかもしれないし、あるんだろうと思うけれども、それが差別を生むわけで。というように、基本的人権という一種の理屈、とは相容れない生物学的な感覚があって。そして、その生物学的な感覚に従って「いやいや基本的人権なんて建前だよ。あんなの嘘だよ」と本気で思っている人は少なくない、という問題。それをそもそも信じてないわけだから尊重するわけがないという、単純な話ですね。
で、もうひとつは、「人権というものは一応分かってもいるし信認もしてる。尊重したいとも思っているのだが、想像力が欠如している」ということ。良かれと思って言ったことで人を傷つけるとかいうことですね。まぁこれもちょっと面倒くさい話だけど、例えば「美味しいコーヒーが100円で飲めるなんて素晴らしい」と思っているんだけれども、それはコーヒー農園でほぼ奴隷のように働かされる子どもたちの労働力の搾取によってその値段が決定していたりするわけだ。すると、美味しくコーヒー飲んでる場合じゃなくて「あと50円で彼らの人権が回復するのであれば…」と、例えばそういうことがある。それがいま言われているフェアトレードとか、そういうことになるんだけれども。悪気はないんだが想像力が欠けている、ということなんですよね。ただ、コーヒー1杯飲む度に地球の裏側の子ども達に思いを馳せろというのは、人間の脳みその機能とか精神力の限界から言えば無理なわけですよね。
で。まず演劇をやってそれがピッタリ処方箋として当たるのは後者の「想像力の欠如」というところです。他者を演じるという機会を通じて「少なくとも自分たちとは違う感覚を持った他者がおり、それらが色々すったもんだしながら社会を構成しているんだ」っていう疑似体験を演劇っていうのは自明的にやるわけだ。それをやるのが演劇なので。例えばボンボンのアホな殿様の役をしたりとか、超大金持ちの仲の悪い2つのお家の息子と娘をやったりだとかいうのは我々の生活とは何の関係もないんだけれども、そうやって時空を超えて想像力を働かせるということでしか、浅野内匠頭だったりロミオだったりジュリエットだったりはできない。それをトレーニングをすることによって、その間だけはすごく強く想像力を喚起するわけですよね。そうして感性を耕すことをしておけば感受性が変わってくるから、さっきのコーヒーの話をされた時にも「なんかよー分からんな、知らんわ。100円の方が良いわ」というふうに心のドアが閉じちゃうか、「そう言われてみればそうかもな、じゃあこっちのフェアトレードの150円の方にしようかな」とか、「洋服でも一緒だよな。綿農園で同じことが起こっているんだよな。」というようなところに感覚が広がるか、ということが大きく違ってくるだろうと。それを子どものうちからやることによって想像力が莫大に広がるというよりは、むしろ閉じて分かんなくなっていくことを防ぐというか。両方ですね。なので、基本的人権を社会的に陳腐化させない、形骸化させないためのトレーニングとしては非常に向いたジャンルだっていうことです。

「みんなちがってみんないい」だけでは実は弱い

ではふたつめの「最初の基本的人権なんてものはないんや」というところについてですけれども、僕はこれにも演劇は効果を持つと思っている。例えばね、今の世の中でほぼ共通しているものさしっていうのは、これもすごく良くないことだと思いますけど、「お金を稼いでいる人の方が、稼いでいない人よりも偉い」ということなんです。これは数あるものさしの一つに過ぎないわけだけれども、肥大化、極大化してしまっている。それを今度、そこからブレイクダウンしていくと、「将来プロのスポーツ選手になって稼ぎそうな奴」とか、あるいは「学校の成績が良くて収入が高い仕事に着けそうな奴」とか「そもそも親が金持ちな奴」とかっていうふうな序列が、小学校の教室にも影響を与えるわけですね。綺麗な服を着ている子とヨレヨレの服を着ている子では、本人の望むと望まざるとにかかわらず綺麗な服を着た子に人気が集まったりとか。まあ人気があるんだったら良いんだけど、ヨレヨレの服を着た子が例えばいじめられるとか、そういうことが起こってくるわけだ。それはお金という単一のものさしに色々なものが帰結してしまうので、そうやって序列ができるからなんだよね。
ところが演劇をやってみると複数のいろんな指標があるんだということが嫌でも体験できる。
背の高いカッコイイ男子ばかりいてもお芝居あんまり面白くならないよね。この人はこういう良さがあって、この子は人前に出るのは嫌だって言ってるから音響さんをしてもらおうとかいうふうに、そして、そこにそれぞれがいろいろな、不可欠な貢献をすることで舞台が成り立つんだっていうことを理屈より前に体験できる。

__ 多様性を認めるということや、その能力を刺激する、ということですね。

そういうことですね。多様性。ただ、「みんなちがってみんないい」だけでは実は弱い。
僕は、繰り返し言っているけれども、経済と経済力が単一の指標として肥大化してしまっているので、これをもうちょっと中和しなければいけないと思っているんですね。それを中和する能力が演劇にはあって。それのひとつのエビデンスとしては、演劇の人は基本みんな貧乏なんだけど、みんな非常に愉快に生きているわけだ。なので、経済的な豊かさとは全く違う指標で満足な人生を過ごせるような要素が演劇にはあるんじゃないかという仮説が今の演劇の人たちを見ていると成り立つ。

__ はい。

「お金持ちになれば幸せになれる」という積極的なお金神話と、「お金がなければ幸せになれない、不幸せになる」というのが消極的なお金神話、それらによって子どもといえども挟み撃ちにされているような状態なんだよね。

__ フリートークで音楽の話がでていましたけど、例えばバンドマンに対しても、演劇とそんなに変わらない経済事情でも愉快に生きているというイメージがあります。

バンドをやって友達と仲良く楽しくできれば全然いいんですよ。演劇は嫌いだが、バンドならやりたいっていう子がね、やるなら全然かまわない。それは演劇とは違う機能だとは思うけれども、基本的人権の尊重につながらないこともないと思うんですよね。で、それはそれでいいので、どっちがいいという話ではないということは前提に、演劇の今の良さは「成功したところで金持ちになれない」ということなんですよね。
お金を目的にした限りでは、演劇では、少なくとも今の日本では成功できない。ということは、お金という目的は少なくとも二の次三の次になってるんです。自動的に。
いま演劇をやっててお金持ちになっている人っていうのは演劇じゃなくてテレビなんです。あれはテレビ業界での収入なんですね。それは凄い分かりやすくて。言っちゃえば、イチローも古畑任三郎かなんかにゲスト出演してたと思うんだけど、だけどそれで古畑任三郎でもらったギャラが高かったからといって「野球でそんなに稼げるのか!」ってならないですよね。もちろん野球のギャラが彼は天文学的に高いわけだけれど。マイケルジョーダンでも一時はCMの収入の方が多かったし、日本でも新庄とかがそうだったらしい。「野球はバイトであって、収入はテレビの方が多かった」って言ってたりする。なので、それでいけば、今の演劇の人達は演劇そのものでは大した金を稼げないわけなんですよね。
だが、僕はそれがすごく良いと思っている。経済というものさしを中和しようと言っていることなので、それなら演劇の業界というのはとても良くて。成功してもどうせお金持ちになれない。でもバンドマンっていうのは本人たちは別に売れたいと思ってなかったとしても、当たってしまうと巨万のお金が動くわけですよ。
なので、そういう意味ではとみに「演劇に比べると資本主義的な活動になりえる」という部分が、演劇と音楽の違いかな。まあ演劇もあるのかもしれないけれども、バンドの方が「どうやったら売れるか」とか「どーやったら儲かるか」とかということの優先順位が高くなりやすい。うまくいけば稼げるから。

何か新しいものができていく時

__ 最後の質問です。
フリートークでは、ワークショップはあくまで演劇を学校教育に絡めていく取っ掛かりであると仰っていましたね。演劇をもっとコンパクトにしたワークショップをまずは教育の場に投げてみて、そこから演劇教育が広がっていけば良いと。そうして広がっていった演劇教育が最終的にどうなっていくかは、自分の現役引退後、自分の手から離れて以降のことになるだろうから先のことは知ったこっちゃない、という内容のお話を一番最後にされていたと思うんですが、知ったこっちゃないにせよ、どのような演劇教育が成立していけばいいなというような希望はありますか?

どういう、というのは実はあまりないですね。強いて言うなら、学習者の自由な表現を阻害しないような形で普及していけばいいなとは思います。

__ まず、蓮行さんの主に活動されている場での演劇は、どういうジャンルですか?

僕は自分のやっている演劇のジャンルを説明する時には「小劇場演劇」と言っています。

__ ミュージカル、とかオペラ、とか会話劇、なんていう括りは使わないんですか。

使わないですね。だから僕はミュージカルもやるし、オペラはやらないけど時代劇的なこともするし、コメディもするし、さまざまですね。まあ、ジャンル分けした方が便利だったらすればいいわけで。グラウンド行ったけどラグビーするかサッカーするかわからんとなると試合にならないわけだけど、子どもにボールを一個与えとけば、ラグビーとサッカーと野球の融合したような変な遊びをするわけじゃないですか。それはたぶん「ボール遊び」って言っときゃいいことなんで。僕はとにかく「大きいところでやるというのはそんなに嗜好していないんですよ」っていう風に考えてますね、だから小劇場演劇と言っている。

__ 教育という場で社会に実装されいてく演劇に、サイズ以外のイメージはありますか。

ないですね。ただ、「教室でみんなでやる」というイメージと、僕のやっている小劇場演劇のイメージというのは、創作プロセスから発表に至るまで割と重なるところが大きい。たとえば劇団四季の人が来て、朗々と歌うメソッドを教室でやると、これはこれで別にいいと思うんだけど、それはどちらかというと大きな劇場でやるメソッドを教室でやってるというイメージがある。けれども僕らは、普段僕らがプロとしてやっている活動に近いことを子どもたちにやらせるという特徴がある。場を選ばないであるとか、個々の持ってる良さやキャラクターが生きるという意味においては僕のやってる小劇場演劇というジャンルと、教室で、教室に限らずとも、社員研修でもそんなに大きい場所ででやるわけじゃないから、社会の中で使うとなると小劇場演劇というジャンルは非常にインストールしやすい、親和性が高いいという風に言えますね。

__ 最初の1点としてはまず、ラグビーやサッカーのような具体的な種目から入るのでなく、ボールを与えるということ?

例えばそういうことですね。

__ それで一緒に何か出来るようにしようと。

ラグビーだってもともとはサッカー中に昂奮した選手がボールを以って走り出したというのがきっかけだって言われているからね。何か新しいものができていく時っていうのは、何かの方法とかルールにはめ込もうというのを逸脱するところから必ず生まれてくるので。まぁそこかな。制限をつけるとすれば、特に小学校とか中学校という所であれば二つ。一つはさっき言ったような人権的な配慮。ブサイク芸人がブサイクといじられていいのは本人がそれを商材として使うことを認めているからであって、それを教室でやってはいけない。そういった個々の人権に配慮したものでなければいけない。
そしてもう一つは時間。45分授業でやるので、45×2コマだということになったら、それは絶対90分でやらないといけないということなんです。それを「6時までかかっても7時までかかっても良いんだ、自由なんだから」というわけにはいかない。台本書いてくる、プロット書いてくる、衣装を作る、というのを宿題にするというのは、運動会の準備とかでも同じようなことしてるから、そこまではぎりぎりいいとしても、「45分×何コマでやります」と言われたらその枠に収まるようにどういう制限をかけるかということが技術的には必要になる。「制限」は今挙げた2つくらいのものです。人権的配慮と時間的制御。これ以上のことは別にいらないとは思っていますね。ただ制限が少ない方が制御が難しくなるので、その枠組みをどう作っていくかっていうことかな。

__ 本日はここまで。ありがとうございました。


(聞き手・倉橋愛実)